大倉和親が生み出したものACHIEVEMENT

STORY 0 父と共に築いた“製陶王国”の礎

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 左:大倉孫兵衛
右:森村市左衛門

大倉和親の偉業については、父・大倉孫兵衛と森村組創業者の森村市左衛門の存在なくして語ることはできません。その道のりには、父・孫兵衛と市左衛門の、ものづくりへのこだわりや美意識、事業に対する理念や経営哲学、そして『森村組』の存在が大きく影響しています。

大倉孫兵衛と森村市左衛門の出会い

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 大倉孫兵衛発行の錦絵

大倉孫兵衛は、幕末から明治初期にかけて、日本橋で絵草子屋『錦栄堂』を営んでいました。絵草子とは、世間の出来事を1〜2枚の絵入りの読み物にした印刷物のこと。当時のニュースやトレンドを雑誌のような感覚で続々と発行したことが話題となり、錦栄堂は大いに繁盛したそうです。

孫兵衛は出版物に関わるなかから印刷文化の発展を予見し、洋紙販売を手掛ける『大倉孫兵衛洋紙店(現:新生紙パルプ商事株式会社)』を創業。ここでも成功を収めました。これらの事業で得た財が、後年、息子・和親とともに興す陶磁器事業に費やされ、先見性が和親に伝承されていくことになります。

一方、森村市左衛門は、江戸京橋の老舗の六代目当主で、武具・袋物を扱う商いをしていました。横浜開港後は舶来品を仕入れて大名家に売り、明治に入ると洋風化を見越して銀座に洋服裁縫店『モリムラ・テーラー』を開店するなど、時代の先端を行く商人だったといいます。

若き日の孫兵衛と市左衛門は開港して間もない横浜港で出会い、何度か会ううちに意気投合して兄弟のような付き合いを始めました。

森村組の誕生

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド ニューヨークに雑貨店を開店

その後、森村市左衛門は「海外へ流出した日本の富を、国のために貿易によって取り戻したい」という強い使命感から、1876年に貿易商社『森村組』を設立。漆器や陶磁器、工芸品など日本の雑貨を買い集め、弟・豊が経営するニューヨークの雑貨店『モリムラブラザーズ』へ送り販売する、日米直輸出貿易の民間のはしりとなりました。さらに、市左衛門の信念に賛同した大倉孫兵衛も、森村組の創業期に参画しています。

当時のニューヨークでは日本の物品はものめずらしく、送られた雑貨は飛ぶように売れました。市左衛門と孫兵衛は大八車をひいて全国の古道具屋を駆け回り、自ら荷造りをしてニューヨークの豊へ物品を送り続けました。当初は、日本中を二人で奔走する日々でしたが、米国での売上げ躍進とともに次々と優秀な社員が集まり、小売業から卸売業へと事業を拡大していきます。

事業開始から数年を経て、森村組は市左衛門自らの渡米視察を機に、新品の陶磁器を主力製品に定め、受注生産を開始。瀬戸や多治見の窯元から仕入れた生地を東京・名古屋・京都の工場で画付させ、ニューヨークに輸出しました。

こうしてオリジナル製品を扱うようになった森村組は、孫兵衛を中心にデザインの創意工夫を重ねました。

その一例が陶磁器の絵柄です。森村組の初期のものは、和風でした。1893年に孫兵衛はシカゴ万博を視察し、日本の陶磁器がヨーロッパの製品に比べて劣っていることを痛感します。彼は「このままでは早晩、国際市場で競争力を失ってしまう」と、西洋から見本となる陶磁器や絵付の道具を買い集めて日本へ持ち帰り、絵柄の改良をはかります。

そして職人を自ら指導して、絵柄を洋風のものへと大きく転換しました。これが功を奏して、評価を受けた森村組はさらに飛躍を遂げることになります。1895年にはニューヨークに図案部を設置し、現地顧客のニーズを取り入れた商品開発に邁進していきました。

和親が森村組に参画

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 渡欧の一行

1894年、孫兵衛の息子・和親は、慶應義塾を卒業した直後に森村組に入社。翌年、19歳の時に渡米し、ニューヨーク近郊のビジネススクールで語学や商業の基礎を学び、モリムラブラザーズで働き始めました。

和親はここから偉業への第一歩を踏み出します。幼少期から偉大な二人の事業家の背中を間近で見たことで、経営者としての統率力や行動力が培われていたのでしょう。彼は父・大倉孫兵衛とともに国産ディナーセットを世に送り出し、特別高圧ガイシや衛生陶器の開発を先導するなど、世界へ羽ばたく近代的な陶磁器メーカーを生み出すことになったのです。