大倉和親が生み出したものACHIEVEMENT

STORY 4 洋食器 父の遺志を継ぎ、最高の美術陶磁器をつくる

出典:株式会社大倉陶園 蒲田に建つ大倉陶園の工場

和親は生涯のなかで、陶磁器や碍子、衛生陶器などセラミックスの開発・製造に取り組んできました。そしてその壮年期に和親は、原点に立ち返るかのように再び陶磁器の製造を手がけています。

その発端となったのは、孫兵衛の「最高の美術陶磁器をつくりたい」という情熱でした。これを叶えるため、1919年に孫兵衛、和親親子によって『大倉陶園』が設立されました。

父・孫兵衛の遺志

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 大倉陶園 エンボス技法

大倉親子はどのような美術陶磁器をつくろうとしたのでしょうか。これを端的に表すのが『大倉陶園』の理念である「良きが上にも良き物を」という言葉です。和親が初代代表を務めた『日本陶器』は当時、本格洋食器のメーカーとして国外でも評価を得ていました。しかし、大倉親子は満足しませんでした。より美術的価値が高い磁器を目指して、さらに歩みを進めようとしたのです。

創業にあたり、孫兵衛は以下のような手記を残しています。
“是は利益を期して工場を起こす事出來ず。(中略)全く商賣以外の道樂仕事として、良きが上にも良き物を作りて、英國の骨粉燒、佛國の「セーブル」、伊國の「ジノリー」以上の物を作り出し度し。(この事業に利益は期待していない。道楽仕事として、良きが上にも良き物をつくり、イギリスのボーンチャイナ、フランスの「セーブル」社、イタリアの「ジノリー」社以上のものをつくりたい)”

もともと日本橋で絵草子屋を営んでいた孫兵衛は、美意識が高い人だったのでしょう。森村組で、アートディレクターの役割を担い、幾度も海外に足を運び、一流の品を見るなかで、「いつか私もこのような品をつくりたい」と考えたのではないでしょうか。そんな父の背中を見て育ち、19歳で渡米の後に外国との行き来を重ねた和親も、同じ思いを抱えていたと想像できます。

製陶工場設立の準備が始まったのは1918年。この時、和親は42歳、孫兵衛は75歳でした。老いた父に代わり、和親は用地の確保に奔走しました。そして、当時まだ田園が広がっていた東京の蒲田に土地を見つけます。

1919年には私財を投じて「大倉陶園」を設立。翌年には蒲田に工場が竣工しました。

最高級の白色磁器の製造を目指して

出典:株式会社大倉陶園 大倉陶園伝統装飾技法 エンボス
出典:株式会社大倉陶園 大倉陶園伝統装飾技法 岡染め(ブルーローズ)

製造にあたり目標とされたのは以下の4つです。「美観のあること(装飾物ではない)」「清浄なこと(汚れっぽくてはいけない)」「使い途にあっていること(日常生活に役立てば必ず喜ばれる)」「堅固なこと(強くなくてはいけない)」ここから分かるように、和親と孫兵衛は、単なる美術工芸品をつくろうとしていませんでした。きっと、身近な生活に寄り添い彩りを与えてくれる“用の美”を追求したのでしょう。

製造環境が整い1921年には初めて窯に火が入れられましたが、孫兵衛は工場設立以前から持病の療養に入っていました。そしてこの年、完成品を見ることなく孫兵衛は逝去してしまいます。享年78年の生涯でした。

父の遺志を継いだ和親は、職人とともに開発研究に勤しみ、孫兵衛の一周忌に初窯製品・白磁薄肉彫蓋付菓子鉢を仏前に供えています。この菓子鉢は、大倉陶園が誇る白く硬質で、かつ滑らかな肌を持つ白生地に鳳凰と飛雲を表現し、縁や高台には金彩が施され、気品を感じさせるとともに大倉陶園の特徴ある白生地の魅力が最大限に引き出されている逸品になっています。和親は「最高の美術陶磁器をつくりたい」という父の願いを見事に具現化したのです。

後年に和親は大倉陶園の創業時を振り返り、次のように語っています。「金は失くしても、技術者諸君の腕とその作品が残れば満足しています。そして、父の気持ち-国内で喜ばれ、外国で驚かれるような品-が出来さえすれば良いと思っている」。

今日、大倉陶園の製品は日本の文化と伝統に裏付けられた高級美術食器として、皇室をはじめ、日本国迎賓館で使われています。また、2008年の北海道洞爺湖サミット晩餐会や、2016年の伊勢志摩サミットワーキングディナーの食器に選ばれるなど各方面で高い評価を受けています。