大倉和親が生み出したものACHIEVEMENT

STORY 1 洋食器 苦節20年―日本初の「ディナーセット」開発

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 日本初のディナーセット

世界の食卓で彩りを添える美しい陶磁器。「ノリタケチャイナ」の愛称で知られるブランドの最初のディナーセットは、和親が初代社長を務めた『日本陶器合名会社(現 株式会社ノリタケカンパニーリミテド)』で製造されました。

白い生地にたどり着くまでに10年

陶土試験報告書 出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 陶土試験報告書

和親の父・孫兵衛が幹部を務めていた『森村組』は貿易商社として、日本で作った花瓶や置物などの陶磁器を米国へ輸出していました。当時、森村組はビジネス拡大のために、家庭で使われている洋食器の製造を模索していました。

折しも、あるニューヨークの顧客から「大皿やサラダ皿、カップまで取り揃えたディナーセットを扱ってはどうか」と勧めがあり、森村組はディナーセットの製造研究に着手することになります。このプロジェクトが始まったのは1894年のことでした。

当時の森村組が瀬戸から仕入れていた陶磁器の生地は灰色がかったもので、顧客が望む白さとは異なっていたため、まずはその開発が急務でした。しかし、5年の歳月を経過しても目標とする白い生地の製造は一歩も前進せず、研究と開発は困難を極めたといいます。

そんな中、1901年に英国の陶磁器商ローゼンフェルド氏との出会いから、翌年に氏の所有するオーストリアにある製陶工場の視察にこぎ着けます。さらに日本から原料を持参してドイツの粘土工業化科学研究所に分析を依頼し、最適な調合割合の教示を受けることができました。1903年、ついに白色硬質磁器のベースとなるが生地が完成。着手から約10年が経っていました。

この時和親は、森村組のニューヨーク店からオーストリアへ、三週間に渡って技術者とともに視察をしています。

次なる関門は「ディナー皿」

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 創立当時の「日本陶器合名会社」本社工場

1904年に『日本陶器合名会社(現 株式会社ノリタケカンパニーリミテド)』 が森村組の生地工場として創立され、弱冠28歳の和親が初代社長に抜擢されました。
当時の日本の陶磁器製造は家内工業の域を出ていなかったなか、日本陶器の工場は、ドイツの生産方式や設備を取り入れた最先端のもので、ここから日本の近代窯業が始まったといっても過言ではありません。

次なる関門は、ディナーセットの主役となる25cmの皿でした。当時は形が均一で中央が平らな皿がどうしても作れませんでした。

和親は工場の構内に自宅を構え、昼夜を問わず研究開発に努めましたが、その間にも「いつになったらディナーセットは送られてくるのか!」と、ニューヨークから厳しく催促がかかります。さらに工場稼働後は毎期赤字を計上し、幾度となく苦境に立たされた和親ですが、それでも諦めずに模索を続けました。

同時に、イギリスやフランスからの輸入が主流だった花瓶やコーヒーカップなどの洋風陶磁器の国内市場の開拓を決意し、和親自ら百貨店や洋食店へ営業に出向いたそうです。

プロジェクト開始から20年

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 25cmのディナー皿
出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 日本初のディナーセット「セダン」

試行錯誤を続け、プロジェクト開始から約20年が経とうとする1912年、事態が好転し始めます。そのきっかけは、とある研究員が与えてくれました。彼はフランスから取り寄せた見本用の大皿を思いあまって割ってしまいました。しかし、その断面を見て違いに気づきます。開発中の大皿は、中央へいくにつれて肉取りを薄くしていましたが、割れた皿は反対に中央部分が分厚く作ってあったのです。皿の中央がへこんだり盛り上がったりするのを防ぐため、できる限り真ん中を薄く作ろうとしていたことが、かえって中央が平らな皿を作れなかった原因だと判明しました。

割れた大皿はとても高価な品でしたが、損失以上に得たものは大きかったのです。こうして製造のヒントを得た『日本陶器』は、翌1913年に25cmのディナー皿の試作に成功しました。

1914年、ついに日本初のディナーセット『SEDAN(セダン)』が完成。第一次世界大戦が勃発したことで大戦景気のアメリカからは注文が殺到し、1916年には1万組ものディナーセットの輸出を達成しました。
若き経営者・和親の執念がついに実を結び、その後『日本陶器』の製品は「ノリタケチャイナ」として世界中に広まっていったのです。