大倉和親が生み出したものACHIEVEMENT

STORY 3 衛生陶器 1万回以上の試作から生まれた衛生陶器

出典:株式会社ノリタケカンパニーリミテド 製陶研究所の製品置き場

衛生陶器とは、洗面器や便器、浴槽など、水まわりに用いられる陶器製の器具のこと。現代では当たり前に使われているものですが、大倉和親の活躍がなければ国内での普及や進化は大きく遅れていたかもしれません。

和親は20世紀初頭に本格洋食器の開発を主導し、この時に培った製陶技術をもって国産初となる腰掛式水洗便器の製造を始めました。ただ、和親が国産化を思い立ったのは1903年。まだ下水道の概念さえ一般に認知されていなかった時代です。当時、衛生陶器はとても珍しく、使われていても輸入品がほとんどでした。そのような社会情勢のなかで、和親が設立した『東洋陶器』は住宅設備機器の総合メーカー『TOTO』の前身となっています。

欧米で衛生陶器開発の着想を得る

出典:TOTO株式会社 1912年に名古屋に設立した製陶研究所

国産初となる腰掛式水洗便器はどのように製造されたのでしょうか。そのきっかけは8年にも及んだニューヨークでの生活や1903年の訪欧にありました。

洋食器の研究のため欧州を視察した和親は、現地の陶磁器商ルイ・ローゼンフェルド氏から、衛生陶器の製造についてもアドバイスを受けています。和親は19歳の頃から渡米を繰り返し、長く海外生活をしていましたから、「いずれ日本にも衛生陶器が必要な時代が来るだろう」と予見していたのでしょう。ローゼンフェルド氏のアドバイスに大いに共感しました。しかし、実現には今しばらくの時を要します。

翌1904年に和親は、父の大倉孫兵衛や森村組創業者の森村市左衛門などと共に設立した洋食器メーカー『日本陶器合名会社』の代表に任命されます。同時に、社をかけた一大プロジェクト、ディナーセット開発の責任者を務めなければなりませんでした。

時は流れ1912年、いよいよ国内に洋風建築が増え始め、水まわり器具や衛生陶器の需要が増加します。しかも日本陶器は創業期の苦労を乗り越え、経営は好調でした。これを好機と考えた和親は父と共に私費で研究所を設け、技術者とともに欧州のメーカーを視察。製陶業のかたわら、衛生陶器の開発に着手します。

国内に前例がなかったため、研究開発は手探りの状態から始まりました。当時は他社も便器や手水鉢の製造を行っていましたが、旧来の木製器具をそのまま陶器に置き換えたものだったそうです。一方で和親が目指した衛生陶器は、現代に近い、給排水用の金具を付けられる複雑な形状のもの。使用に耐えうる硬度をもち、金具の取り付けが可能な衛生陶器をつくるためには、新たな技術やノウハウが必要となりました。

日本陶器の経営を通して製陶技術は蓄積されていましたが、衛生陶器は大型で、形も複雑です。これまでつくってきた食器やタイルのノウハウでは追い付かず、開発当初の製品は焼成中に自重で形が崩れてしまったといいます。

1万回以上の調合による試作

出典:TOTO株式会社 国産初の腰掛式水洗便器

和親と技術者は相当数の試行錯誤を繰り返したようです。当時記されたノートには「素地、釉薬の調合は1万7280余種の調合と試作を重ねた」と記入されています。

これらの試作は、下水道の概念さえ認知されていなかった時代に行われています。衛生陶器の需要はほぼない時代で、製造しても売れる保証はありません。そのような状況のなか、多額の費用を投じ、1万回以上も試作を重ねることができたのは、和親が衛生陶器の普及を強く確信していたからでしょう。

このような努力と投資の甲斐があり、1914年には早くも試作化に成功。優良品を選び、水洗式の腰掛便器や洗面器の試験販売を始めることができました。同年、第一次大戦が勃発し、ヨーロッパは戦乱の渦中となりますが、製品化を急ぐ和親はイギリスやフランスへの渡航を断行して、製造に必要な機械を購入しています。

試験販売の結果、建築業者から「輸入品と比べても遜色がない」と評価を得た和親は、1916年に工場設立の準備を始め、翌年に北九州の小倉に製造拠点を構えました。

品質向上のため、日本初のトンネル窯を導入

出典:TOTO株式会社 トンネル窯建設

その後、和親は1917年に東洋陶器株式会社(現:TOTO株式会社)を創立。製造工程を刷新するため、1920年には国内初の連続焼成窯(ドレスラー式トンネル窯)を自費で設置するなど、多額の投資を行い、徐々に生産設備を整えていきました。

しかし時勢はなかなか味方してくれません。設備が着々と整っていく一方で、第一次大戦終結の影響をうけ、世界の景気は急速に悪化してしまいます。さらに、当時はまだトンネル窯での衛生陶器の製造に不備が生じていたことに加え、衛生陶器・食器を合わせてもトンネル窯を動かすだけの注文がまとまっていなかったこともあり、窯の火を消して製造を休止する年もあったそうです。

経営が軌道に乗ったのは1923年に起きた関東大震災の後でした。この地震で多くの建物が崩壊しましたが、近代建築技法を取り入れた建物は損害が少なかったため、その後、鉄筋コンクリート造のビルが続々と建てられたのです。同時期に上下水道も整備され、衛生陶器の需要は一気に伸びました。

いち早く衛生陶器の製造に取り組んでいた東洋陶器はこの波に乗り、東京市場の60%を席巻。次第に全国へと販路を広げ、今日まで続くTOTOの基礎を築いていきました。時代を先取りしすぎたかのように見えた衛生陶器の開発ですが、和親の先見は正しかったのです。