大倉和親が生み出したものACHIEVEMENT

STORY 2 高圧ガイシ 近代日本の電化を支えた特別高圧ガイシ

出典:日本ガイシ株式会社 高圧ガイシ

碍子(ガイシ)とは、電柱や発電所などにおいて、電線とその支持物の間を絶縁するために用いられる器具で、電気を安定して送るために欠かせないものです。

ガイシを製造し、高いシェアを誇る『日本ガイシ株式会社』は、世界トップクラスのセラミックスメーカーです。その技術を応用して、自動車の排ガス浄化用セラミックスや大容量蓄電池システム「NAS®電池」など、独自のセラミック技術で様々な製品を世に送り出しています。

その前身は特別高圧ガイシの国産化に成功した『日本陶器』です。和親が初代社長を務めたこの企業は「国家の発展に貢献したい」という思いから生まれていました。

国産の特別高圧ガイシへの挑戦

出典:日本ガイシ株式会社 1927年当時の重役会メンバー
(左から4番目 大倉和親)

日米貿易の先駆者となった父・孫兵衛に一任され、28歳にして洋食器メーカー『日本陶器合名会社』の代表となった大倉和親は、国内初となるディナーセットの開発を続けていました。

この時は明治後期でしたから、折しも日本は近代化の真っ最中。水力発電が始まるとともに都市の電化が進み、発電所からの高圧送電が開始されています。しかし、送電に必要な特別高圧ガイシは輸入品に依存していました。

「高額な輸入品に頼っていては日本の電化は進まない、国産の送電用碍子が必要だ」と感じていた『芝浦製作所(現 株式会社東芝)』の技術長は、近代的な製法による陶磁器製造に挑戦していた日本陶器を訪問します。「磁器が持つ絶縁性能は碍子にも応用できる。国の電化を進めるため、碍子を製造してはくれまいか」この提言に賛同した和親は、1906年に、特別高圧ガイシの製造研究を開始しました。

一方で、不安材料もありました。和親が社長を務める日本陶器は陶磁器生産がいまだ軌道に乗らず、設立以来赤字が続き、さらにガイシ製造には電気的な知識が必要なものの日本陶器には電気技術者が皆無であったため、社内ではガイシ製造には前向きではなかったようです。しかし、和親は反対派を説得して事業化を実現しました。

後年に和親はこの時を振り返り、「営利ではなく、国家への奉仕としてやらねばならぬと決意した」と述べています。若くして渡米し、海外生活が長かった和親は、電化が人にもたらす恩恵を肌身で感じていました。「経営が苦しくとも、この仕事は必ずや国の未来をつくってくれる」そう確信していたはずです。

15kV用特別高圧ガイシの製品化に成功

出典:日本ガイシ株式会社 芝浦製作所の技術長がアメリカから持ち帰った
ガイシの破片

いよいよ開発が始まりましたが、特別高圧ガイシの製造は難しく、工場内には電気の専門知識を持つ技術者もいませんでした。プロジェクトは2社の提携で進められ、芝浦製作所から技術者や学者を招いて始まったといいます。芝浦製作所の技術長がアメリカから持ち帰ったガイシの破片を研究し、その成分や釉薬を分析。試作段階では十分な強度を得るまで、幾度となく指導を受けたそうです。

その甲斐あって、1907年には15kV用特別高圧ガイシの出荷を開始。翌年には芝浦製作所へ恒常的にガイシを供給する契約を結びました。

その後、確かな強度と性能を備えた日本陶器製のガイシは全国各地の電力会社から受注し、売上規模が拡大します。日本陶器は設備投資やディナーセットの開発費用がかさみ、創業時から赤字が続いていましたが、碍子事業の好調もあり、1910年に初の黒字を出すことができました。
事業の拡大に伴い、さらなる生産力が必要になった碍子部門は1919年に分離独立し、日本碍子株式会社が設立されました。

スパークプラグへの展開

出典:日本ガイシ株式会社 開発初期のスパークプラグ

1930年の昭和恐慌の影響を受けた日本碍子は、その苦境を脱する方策の一つとして海外市場の開拓を図り、1935年にインドから受注に成功。これを皮切りに、韓国や中国などアジア方面にも販路を広げ、出張所を開設していくことになります。

1930年にはガイシ製造の技術を応用し、エンジンの点火などに使われるスパークプラグの製造を開始。日本の電化だけでなく、モータリゼーションの発展を支えました。このスパークプラグ部門は、1936年に日本特殊陶業株式会社へと分社化しています。

当初こそ社内から反対され、和親が「国益のため」と押し通した碍子事業でしたが、結果的にグループの成長に大きく貢献する形になったのです。